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日々約400字を羅列する脳内すけすけなログ

2024|02|01-10

 

華とかなんとか

だれかのつぶやきを見て思い出したことがある。数年前、学校関係の大人の男性にとある街のイベントのスタッフに誘われた。浴衣を着て訪れた方と関わるというものらしい。詳細は書けないが当時の自分にとって得られるものがあると判断し、二つ返事で引き受けた。

しかし、その際に「華になるから〜」と言われた。華ってなに?もし浴衣=華ならあなたが着たって華になるのでは?なぜ女性にだけ声を掛けるの?女の体で生まれてきたばかりに向けられた言葉なのか?と、もやもやした。なによりその場でその感情を言語化できず、適当に笑って受け流してしまった自分に未だにもやもやしている。

もし子供の頃に華とかなんとか言われていたら喜んでいたかもしれない。しかし思春期を経て、華という言葉には意味以上のものが乗っかっていることを知ってからは手放しに喜べるものではなくなっていた。私という文脈を無視し華要員として扱われることに、むしろ喜びとは正反対の感情を抱くようになっていた。

似たような経験談を目にすると私だけじゃないという一過性の安堵のようなものを覚えるが、それで終わらせたらなにも変わらないことは分かっている。自分にできることを今一度考えよう。

結局そのイベントには参加しなかった。

2024-02-01 (Thu.) 19:30

 

寿命を更新する

私はあと何年生きるんだろう。いくつまで生きるつもりなんだろう。答えのない問いばかり考えてしまう日々をこなしながら生きている。

10代の頃はなぜか20歳になると死ぬものだと思っていた。死ぬというより20歳の自分が1ミリも想像できない→人間という姿では存在していない、が正しいのかも。そんな思考を脳内で飼い慣らし20歳を迎えた日、なにひとつ嬉しくなかった。生まれた日がなんだ。こんな憂鬱なことがあるか。

20歳を超えてからの誕生日は来年こそ、再来年こそ、とまるで自分に決定権があるかのように一年ずつ寿命を伸ばしている。

希死念慮とか厭世とはちょっとちがう感覚。サザエさんのキャラクターがまる子ちゃんの世界に迷い込んでしまったかのような。意味分かんないけど許されないことをしているような感覚。

きっと30代になっても40歳になったら死ぬんだ、と思っていそう。いつ死ぬかなんて誰にも分からないのに。でも、そうやって【いつまで】を設定しないと生きていられないのかもしれない。

2024-02-02 (Fri.) 17:12

 

行事に託けて

諸事情で二週間ほどスマホから更新していたが言葉を綴るにはパソコンがしっくりくる。形から入るタイプの私には、キーボードをぽちぽちするのが性に合っているようだ。原稿用紙に直筆といった文豪スタイルに憧れたりもするが、きっと私だったら落書きしはじめたり歌詞を写しはじめたりしてあれ?なにしようとしたんだっけ?状態になる未来がみえる。だからこのパソコンが共に生きてくれるまで酷使することになりそう。よろしく頼んだ。

今日は節分らしい。行事ごとを大切にして暮らすような人間ではないが、食事となれば別の話だ。豆はまかないし鬼も出現しないけど内は内、と言い聞かせて(言い訳して)夜ごはんに恵方巻きを食べた。どうでもいい自論だが、ごはんものは絶対に糖質量など見てはいけない。どうせ食べるのなら罪悪感など感じずに食べたい。おいしいものはおいしい、それ以外の感情などいらない気分だ。

次の行事はなんだろうか。行事というより行事に託けて食べるであろう食事はなんだろうか。

2024-02-03 (Sat.) 23:07

 

眉毛のすゝめ

生まれたまんまの眉だろうと物理的に迷惑をかけることなどないし自分以外の意思で嫌々整えるようなことなどあってはならないと思っているけれど、外見がモチベーションに繋がる人や悩みがあるけどやり方が分からない人には眉毛サロンを勧めたい。

眉毛サロンには、骨格や黄金比に沿ってその人に合った眉毛に仕立ててくれる眉の救世主がいる。もちろん自分の要望も汲んでくれるし完全にお任せもできる。方法はワックス・糸・針など様々だが一時的に美しい眉になりたいのならワックス、一本一本半永久的に生えないようにして自己処理のほぼ必要のない眉を目指すのなら針をオススメする。(超個人的意見)私は糸たまにワックス、といった感じで通い着実にマシになってきた。

またサロン選びも重要である。私は某有名サロンや糸脱毛専門店などいくつか足を運んだ末決めた。施術をしてくれる方との相性もあるからガチャを引き続ける気持ちで。

眉にいくらかけられるか、というのは完全に価値観の違いだから気になる人は調べてみてほしいが、施術には痛みがつきものだ。私はわざと寝不足で行き、睡魔と痛覚を戦わせている。気づいたら終わってた状態を期待して。

2024-02-04 (Sun.) 19:19

 

現場の席事情

もうすぐライブがあるから席を確認したらブリージア席なるものだった。なにそれ。アリーナ、スタンド、GC(グランドサークル)席、2階最後列一番端など割とバリエーションに富んだ座席経験を積んできたのだけど、ここにきて初耳がくるとは。最前といった神席なるものは当たったことがないのが私らしい。

ブリージア席とはなんなのか。ブリージアとはギリシア語で階段状の席のことらしく、一般的にアリーナとスタンドの間に段差を設けて作られる席だそう。なぜギリシア語なのか。階段席とかじゃだめ?席の名前=横文字って決まってるのかな?

階段状だから見やすそうだし、照明やステージ構成も含め楽しめそうで魅力的。極論、最後列だろうと楽しめるタイプだからどんな席でも構わないけれど、ライブや舞台、コンサートは、会場の空気感やその会場特有の座席も楽しみに足を運んでいる節があるのだ。

ああ、心から楽しみ。グッズも良さげで大人買いしちゃいそう。散財するときだけ大人ぶるのやめたい。

2024-02-05 (Mon.) 15:30

 

美の琴線

私はよく年配の方にべっぴんだと言われる。読んでいるあなたがドン引きする姿が目に浮かぶけど構わず書き進めるね。

べっぴんをそのままの意、美人を表す俗語と捉えるとして。問題は自分がべっぴんとはかけ離れた存在であるということ。造形という点で見るならばかなり醜い容貌をしている。骨から神様の大失敗作、といった感じに。

なぜ初対面の若造に分かりきったお世辞を言うのか、年配の方の中で私を図に乗らせようなどという謎の計画が遂行されているのか、と疑心暗鬼になっていた。

年配受けの良い顔(なにそれ)なのか、あるひとつの要素を指しているのかなど考えてみた末、細かな造形の美醜より全体の雰囲気や肌のトーンを見ているのではという結論に至った。特に肌が白い=べっぴんという法則が若者以上に成り立っている気がする。

肌が白いなんて別に良いも悪いもなくただ私を構成するひとつの要素でしかないのだけど誰かの美の琴線に触れることもあるのか。美しさの基準ほど不安定で揺らぎやすいものはないから無駄に期待して傷つきたくないけれど、一部の人間の目には自分が思っているほど醜く映っていないのかもしれないと思うとすこしだけ息がしやすい。ありがとう、図に乗らせ隊。

2024-02-06 (Tue.) 17:48

 

偽物の北斗七星

ライブやコンサートといったものに足を運ぶたび表現者は勿論、関わる方々含めまるごと好きになってしまう。どんどん好きになってしまう。

よく舞台に立つ人間が観客に向けて(表現方法は様々だが)ありがとう、幸せでありますように、といった内容を投げかける姿を見かけるがそんなのこっちのセリフだよ!といつも心の中で叫んでしまう。

今日行ったライブである曲のとき、照明の力で会場上部が星空のようになっていて演奏も相まって幻想的で見惚れてしまった。そしてふと目線を上げたら天井にさそり座が存在していて、それが本当に美しくて、本物のさそり座を見たときの何倍も興奮してしまった。言ってしまえば偽物なのに。

たくさんの人が存在する会場で一人だけ気づいたなんてことは絶対にないだろうけど私は、私だけは照明さんの粋な遊び心に気づいてましたよ、と厄介なマウントを取ってしまいそうになるほど心に残っている。

2024-02-07 (Wed.) 27:30

 

一堂に会する場所

今日も昨日に引き続き全力で楽しんできた。典型的な埋もれ席だったけれどそんなこと忘れちゃうくらい全力で楽しんできた。本当に最高だった。ラストでいちばん好きな曲のイントロが聴こえたときは思わず泣きそうになった。心からありがとうの気持ちでいっぱい。

今日のライブは特に個性的な人たちに囲まれていた。冬なのに半袖1枚、しかもタンクトップ状態にしてお手本のような身のこなしで全力で楽しむ方、うんうん頷く独自のスタイルでリズムに乗り口パクで全力で歌う方、椅子に立って見様見真似でノってみる子どもの方など多種多様なお客さんが視界に入ってきた。日常で関わることのなさそうな人たちがある人間を目的として一堂に会するってすごいことなんじゃないか、とこういった空間に足を運ぶたびに思う。

もちろん目的はそこではないから意識して見ることはないけれどライブでの参加スタイルやグッズの着こなし方、客層やスタッフさんの雰囲気といったものを見るのも楽しい。当たり前だが私もそうやって見られている側でもあるだろうけど。

2024-02-08 (Thu.) 25:28

 

どうにかなる

最近【失うものがない人は強い】といった考えを噛み締める瞬間が多い。

私は数年前から失うものがない側の人間になったと自負している。稚拙なプライドも陳腐な承認欲求も消滅し、もうこれ以上苦しことなどないと言い切れるような日々を通り過ぎてからは、無の境地に辿り着いてしまった。それは強いのではなく、どう思われようが構わないから周りの目が気にならなくなり、なりふり構わずズンズン進んでいけるといったもので。

一度レールを外れてしまうと(この言い方は好きではないが)終わり、と言った意見が散見される世の中だが意外と人生どうにかなる。いや、安定や確実といったものを求めるのなら精進するしかないが、私のように死なない程度に生きていられたらといった考えならば思っているよりもどうにかなる。ただ、こういった楽観的ともとれるような意見を悩んでいる人に投げたところで耳に入らない。私もその立場になり身をもって感じないと咀嚼できないことばかりだった。結局そういった学びの繰り返しなんだろうな、人生って。

2024-02-09 (Fri.) 21:00

 

ゆっくり足

心理テストなる本を読んでいたら歩くスピードは?といった問いが現れた。そんなこと考えたことなかったからここで答えを出そうと思う。

早足になるタイミングといったら時間に追われているときや勤務中とかだろうか。私はそれらに加えて紫外線が気になるときは無意識のうちに早足になっている気がする。早足といってもよく抜かれてるから客観的に見たらふつう足くらいかもしれない。

逆に上記に該当しないときはゆっくり足な気がする。特に空気がおいしいときはへー、生きてみるのも悪くないじゃん、と謎の上から目線でこの星を讃えながら味わって歩いている。生まれたてって感じの声が迫ってきたときはさすがにスピードアップしたけど。

結論、時と場合によるがやや遅い、をファイナルアンサーとする。心理テスト側もこんな長々とした回答なんて求めてないって分かってるんだけど。もっと3秒くらいでパッと答えるものだって分かってるんだけど。しかも時と場合による、なんてそりゃそうやろって感じなんだけど。

2024-02-10 (Sat.) 22:09